→大人

 ここ数年、自分の年齢を何度も何度も再確認する癖がついた。何でかなあ、と思うけど、改めて確認しなければ自分が30代の中盤に差し掛かってるなんてとてもじゃないけど実感できないからだろうと思う。
 最近、ピアノをそんなに弾かなくなった。もちろんなるべく毎日弾くように心がけてはいるが、とりあえず最低限の腕を維持するだけ、という感じだったりする。その代り外に出てる時にカラオケに一人で行く回数が増えた。長いと2時間くらい一人で熱唱していたりする。
 どう考えても「つまらない趣味」である。でも、自分には今のその「つまらなさ」の方がしっくりくる。即興の底に個性を目指して沈んでいくよりも、凡庸な表現を歌という手段で発散する方が現在に於いては間違いなく、健全だ。実際、驚くほどスッキリする。レパートリーはマニアックなものから、昔自分が聞いていた曲にまでスライドしていく。マイクから出る声は、そこそこ声量はあっても個性なんぞ欠片も無い、つまらない代物だと自分でも思う。
 昔の自分と今の自分はいつの間にか大きな隔たりが出来るようになった。昔は一つの事に深く深く沈んでいければ、他の事なんてどうなっても構わないとまで思っていた。今はとてもそれでは生きていけないので、つまらない事を覚え、つまらない事で発散し、それでも日々一枚ずつ一枚ずつ層を増やしていく生活をしている。気づいたらそれも5年くらい続いている。生きるか死ぬかの際を歩くなんて行為はとうにしなくなって久しく、代わりに広い横断道路を手を挙げながら歩いていくような感じだ。
 それが、俺が今体感している「大人」だ。
 スーツをオーダーし、カラオケに行き、たまにそこそこの値段のイタリアンに行ったりする、このくっだらなさ。書きながら自分の俗物さに笑いが出てくる。こういう風に今の生活を表現してるって事は、もう一人の自分が俯瞰して吐き捨てているんだろうなとも思ったりする。もっと刹那的になれよ、もっと天才を目指せよ、そんな声がどこかから聞こえる。いや、もしかしたらある方面からは実際にそう思われているのかも知れない。
 俺はよく年齢を反芻する。今年で34だ。ふとしたきっかけで二十歳の頃の自分の顔を写真で見てみたら、今とまるで違う、殺気に溢れた若者がそこにあった。あの頃自分は何を見ていたのか、案外覚えている。そして、あの頃にもっていたギラつきが、現在は全く違う別の何かに変換されてしまっているという事も、よく理解できる。「あの頃は若かった。今は大人になった」とも「あの頃は希望に溢れてた。今はクソだ」とも結論がつけられない。ただ見比べてみて「違う人間だな」としか思えないし、それに対してわかりやすい優劣をつける気は、とても起こらない。
 ただ、現在は間違いなく自分は「大人」側にいるのであって、それはクッソくだらない、凡庸な毎日から構成されている(たとえそれが苦悩に満ちていてもだ)。俺が自分の年齢を反芻する癖が無くなった時、それは自分の中にすっぽりと納まっているのかも知れない。そして、俺はその時間違いなく「大人」そのものになっているのだろう。

新しいルート

 最近、物語を書く事を覚えた。
 と言っても、明確な筋や構想なんて無い。適当なキーワードや、今自分のいる場所をイメージして書いて、そこから指の任せるまま世界を繋げているだけだ。大抵は見た事のあるような場所を歩いていたり、あるいは誰かとお喋りをしていたりする。
 まあ、書き方としてはこのブログの書き方に近い。構想も何もなく、ただ書きたい事を書いて、なんか自然と話にオチがつく。違う所があるとすれば、この日記(のようなもの)は現在俺が思考している事を話し言葉でそのまま書いていて、物語を書く場合はそれを「象徴」として書く。
 例えば「仕事が辛い」と書きたい時は、ここで書く時は「仕事が辛い」とそのまま思った文章を書き、物語の場合は別の何かに置き換えて(連想する何かで)書き記す。人物が出てくる時があっても、それはあくまでも「象徴としての人物」であって、現実の誰かをイメージする事は無い。名前も付けない。設定も何も無い。「何も現実的なものと結びつけない」というのが重要な気がする。
 じゃあ、その物語は何のために書くのか。
 人に見せるためでは無い。人に見せるためだったら、もっと「それ用の」物語を書くだろう。筋も作るし、見せ場も作るし、何かしらの読み手のカタルシスを喚起させるものでなくてはならない(と今は考えている)。
 思えば会話も音楽も文章も物語も、俺はそういう風に「他人用」と「自分用」を完全に分けて作る傾向がある。そして最近は仕事で「他人用」を限界まで作っているため、現在プライベートでそういったものは一切作りたくない。
 じゃあ何のために作るのかと言うと、自分の本音を引き出すために書いている。不思議な事に、毎日つくられる物語(大体ねる前に15分くらいかけて書く)は途中から何かしらの「啓示」が表れてくる。展開がそうなったり、誰かが自分にとって有益な何かをしゃべったり。
 実は、ブログに書く以外にも俺はずーーーっと文章を書いていて、その時も「啓示」というか気づきのような事は最後にいつも現れてくれていた。基本的には同じようなものだ。ただし、文章を書く時は理性で思った事を積み重ねて書いて現れるが、物語を書く時は象徴を並べていった結果、現れてくる。つまり、物語は俺の「深層」に近づくための別のルートだ。
 その事に気づいて、俺は改めて人間の精神の奥深さに感動した。
 よく考えてみると、人間は生まれてから現在の事を全て記憶していて、脳のどこかにしまっているという。つまり、人間の精神(記憶の積み重ね)は刻一刻と拡張し続けていて、それは恐らく俺らが普段イメージしているよりも遥かに、本当に遥かに広いのだろう。普段、人間は別にそこを使用する必要はないのかも知れない(外界の生活の方が大体に於いて大切だ)。ただ、たまに俺のような内面に潜る手段を「知ってしまった」人もいるのだろう。そして、俺はその手段を現在を打破するために必要としている。
 俺は村上春樹がここ数年大好きな作家となっているが、それもとても影響を受けているのだと思う。彼の著作は、精神の潜り方を教えてくれる。

 現実的に言うと俺は今とてもしんどい状況にあって、おまけにこれから人生の選択をいくつもこなさなければいけない。
 思い返すと、過去にもいくつもそういう危機はあった。そういう時、俺はいつも本を読んで、文章を書いて、ピアノを弾いて、運動をしたり体の運用を模索したりしていた。今回の物語の作成も、大まかに言うと新しく生まれた「何とかするための手法」なのだろう。何とかしなければいけない。でも、その過程で生まれた手法は必ず別の形でも役に立つし、もしかしたら何か別の未来の道も作り出してくれるかも知れない。ピアノを弾く事が誰かのためになった時のように。文章を書いた事によって誰かと繋がれた時のように。

持ち物としての「技」

 今日はすげー久々に人前でピアノを弾く。
 と言ってもライブ形式ではなく、食事会の場にピアノがあったんで皆が談笑する横で即興とジャズとクラシックを混ぜたのを1時間半くらい。しかし楽しかった。
 思うに、俺が楽ーに弾ける形式はライブではなく、こういう感じのように思う。人がずっと集中している場で弾く時、俺は「相手に届く形」のパフォーマンスの高いものを弾こうとする。すると、結局の所(客次第だが)完全に即興で弾くよりもクォリティのある程度保証出来る楽曲形式のものが好ましい。しかし、それには時間がかかるし、何よりも俺が望む形の「楽曲」はこの歳になってもイメージが出来ていないのだ。不定形な形での演奏には何よりも自信があるが、楽曲形式でレベルの高いものは弾けないし、自分の大切なものをスポイルしてしまっている気がする。特にピアノトリオに於いては。(もちろん、今までの経験でそう思ってるだけで、奇跡のようなメンバーに恵まれれば違う感想を持てるのかも知れない)
 今日のは、完全に遊びだ。客の受け入れやすい形に「納めて」はいるものの、それ以外では実に適当に弾かせていただいた。深みに潜る演奏ではなく、単純に綺麗な旋律、楽しい音楽を提供出来たように思う。自分も楽しく弾けたし、なかなかに評判が良かった。最近はピアノを弾くモチベーションがかなり落ちてしまっていたが、このような機会がまた来るのならその準備をしていても良いなと思った。
 まあ、まだそこそこ弾けるらしいよ俺は。最近はピアノの自信についてすっかり忘れていたけれど、俺の中には芸になるレベルでの引き出しがいくつかあるらしい。昔は自分を天才と思っていた。今は、まあ、普通。でも、かろうじて残していたものはまだ価値を放ってるみたいだ。そのうちまた「使える」機会が起こるかも知れないから、まだもうちょい頑張ってみようかな。

偶発性について

 さっさと書く。寝るからね!
 今日も今日で仕事でうにゃうにゃ嫌な話とか怒られたりとか必死でなんとかこなしたりとかやって、どうにも最近イラつく事が多すぎる(今週楽しみにしてた読書会が行けなくなった!とか)ので、せめて美味いものを食おうと駅前の評判よさそうなトラットリアに突っ込んでみたらガチモンで美味くてすっかり興奮してしまった。俺も全くレベル下の下の舌しか持っていないと自負しているが、美味い料理って多層にわたる美味さなんだよね。ちと高かったが全く後悔が無い。というか、もう口福過ぎた。
 で。
 今回行く読書会というか、テーマをもとに雑談する会なんだけど、そのテーマが「偶発性」というものだった。ホント行きたかったが、今日の事をきっかけに少し思った事がある。
 それは、「良いものも悪いものも集まる」という事だ。もちろん、事象というのは完全にランダムに起こるものだが、実際にはある程度「流れ」があるように思う。それは実際の事象「そのもの」ではなく、受け取り手の精神状態や健康状態、周りの環境が大きく左右する。
 俺は訃報を聞くわ突然人間関係断たれるわ予定が流れるわ仕事は辛いわですっかり碌でもない事が続いているけど、正直な所、俺が参れば参るほど悪いものを「引き寄せる」し、「敏感に反応して」しまう。確かに今回、訃報と人間関係のアレはかなりキツいが、予定のキャンセルなんてよくある話だし、仕事についても過敏に反応してしまうだけで、状況としては別に悪いものでは無いように思う。心も弱るし、心が弱ると体も弱る。そして、総合的に弱ると外に「放出する」パフォーマンスも落ちてしまう。そうすると悪い事ってのは必然と「確率が上がってしまう」。
 で。
 それを覆すには悪循環をどこかで止めなければいけない。でも、なかなか止められない。じゃあどうしたらよい、と思った所で今回のクッソ美味い飯、そして直後にクッソ面白い漫画を買うという小さくとも「好循環」が生まれた。これは俺の心に間違いなく影響を及ぼすし、単純に「悪い事しか起こらない人生」ではなくなったという事になる。
 悪循環を抜け出すには、こういうコツコツが必要なのかも知れない。
 とは言え、昨日までは全ッ然そんな余裕は無かった。もう何もかもクソボケがふざけんなと思っていたし、そういう時にはこういう小さな変化を作るのは難しい。じゃあどうするか。日常の揺らぎの中から、少しのチャンスを見つけるしかないのではないか。いや、もしくは、悪循環も関係ないポイントから良いものを出す習慣を作るのが良いのかも知れない。
 まだ明日は悪いと思うなー。また色々あると思う。俺は元々運が良い方では無いのだ。でも、まあ、今回みたいに必要なものが流れでも努力でもセンスでもなく、単純に「金」という場合もあるみたいだ。そういうのが他に見つかるといいな。金つっても、飲みに行ったりエロい所行くよりはずっと安かったんだから。

 先に書いておくけど、俺は友達の一連の式(死んでから行う儀式)のほぼ全てに参加し終えて、一日経っても気持ちが納まらない。あるいは仕事のせいかも知れないし、それとは別に物凄く落ち込んだ出来事があって、それのせいかも知れない。あまり安定した状況とは言えない。それでも俺の行動の全ては「回復」の為に動いているし、今だって以下の不穏な文章を書きながら、太陽の下でだらだらと日向ぼっこを出来る自分を想像している。だから、こういう文章を書く事もたまには許して欲しい。
 さて、物騒な事を書く。俺は最近、死ぬ直前の話ばかりをよく連想する。友人が死んだ瞬間をよく頭に思い浮かべる。最近買った本に出てくる人間が死ぬ瞬間だけが瞼に焼き付く。自分が死ぬ時はどんな感じかななんて、よく頭に浮かべてしまう。
 自分が死んだ後は…という想像は昔からよくしていた。ただ、その「死ぬ」というのは実感の伴っていない、何となく漠然と「自分が消去された」後みたいな感じのものだ。自分がこの世界から失われたら、世の中はどう変わるだろうか、俺の周りの愛すべき人たちはどのようになってしまうのだろうかと。ただ、その考えを巡らせるといつも「というかどうせ俺が死んだら後の事なんて認識出来やしないのだから、そんな世界は無いものと同じだ」という結論に至る。
 で、友達が死んだ。彼にとって現在というのは、認識出来ない世界なのだろうか。それとも、どこかで(それこそ常識の存在しない何処かから)確かに世の中の何かを認識しているのだろうか。昨日、法事の最中に号泣した俺達を彼は見ていたのだろうか、それともそんなもの知ったこっちゃない、何かになっているのだろうか。どこかに行っているのだろうか。
 嫁さんが「×さんは火葬されるまで、そこにいたらしいよ」と言った。彼女の妹は所謂「見える人」で、告別式までは俺らと一緒に、会場の所に座っていたらしい。ただ、火葬の後は気配が見えなくなってしまったとも言っていた。
 それを聞いて、俺の頭はややこしくなってしまった。彼は死んだ途端に「無くなった」のか、それとも火葬されるまでは「在ったのか」、それとも火葬された後でも「居る」のか。死ぬってのは存在を「どう変化」させてしまうのか。
 一番の友達と自称してはいるが、実際に彼と会ったのは11月が最後だ。その後、俺にとって彼は「そこに居ない存在」だった。もちろん、それは何かのきっかけで会う事は充分可能ではあったのだけれども、まあ、俺は彼が居ない事には慣れてはいた。ただ、その時と、今この「彼そのものが失われてしまった」もしくは「彼が『死者』という抽象的概念に変貌してしまった」状態と何が違うのだろうか。ずっと会えない人と、亡くなってしまった人というのは、自分にとってどのような違いがあるのだろうか。
 一つあるとすれば、ずっと会えない人は忘却が出来るが、亡くなってしまった人は忘却が出来ないという事だ。俺は彼の死が焼き付いてしまった。今、そのショックからまだ抜け出せていないし、抜け出せた後でも何かが変わってしまっているだろう。
 昨日、納骨の儀式に参加している最中、「こんな事は人生で最後にしたいな」と一瞬思った。しかし恐ろしい事に、俺はこの儀式が初めてでは無かったし、これからも度々参加しなければいけないだろう。実際、ちょこちょこ俺の周りでも死が点在し続けている。今まではあまり意識していなかったが、彼が死んでから、気になって仕方がない。
 こういった文章を書くと必ず過剰に心配する人が出るから、あんま書かない方が良いんだが。というか、書いて後悔して消すかも知れないが。まあ今回の件で、俺はあと30年は死ねねーなと強く思ったのでひとまずそこは安心してもらいたい。
 乗り越えるだけの材料が足りない。あったような気がしたのだが、それがちょっとした事で消え去ってしまった。職場は相変わらず俺にとって不穏なもので、さっさと去ってしまいたいがなかなかそうもいかないみたいだ。足元も、空気も、自分にとって安心できない。
 俯瞰して見てみる。俺は結構今、谷底にいる。 一か月くらい仕事を休んでしまいたいな。ゆっくりとした時間が俺には必要だ。無駄を沢山積み重ねて、その濁流で一度洗いなおしてしまいたい。そうすれば、もしかしたら新しい何かを始められるのかも知れない。また五年も何もしないのは勘弁だから、なかなか決断する事は出来ないけれど。

とりあえず、一段落。

 怒りや憎しみが出そうになったのを止める事が出来たのは、自分が相手の事をそこそこに「理解」する事が出来たからだと思う。ホント、世の中には色んな人間がいる。というか、俺が大して人と出会ってないって証左だな、今回の件は。
 あの子はこれからも怒り続けるんだろうな。怒る対象が多いから。そして、人を明確に「区別」し続けるんだろう。俺は怒る事が大嫌いだし、自分が怒る事を「恥」だとも考えているから、逆に怒る人と対峙すると出遅れてしまう。でも、その代りに俺は自分の中で「敵」をあまり作らずに済んでいる。弱いからね。敵は少ない方が得なのだ。
 哀れだな、と思うけど
 その「哀れだな」という言葉も「自分は相手の事をよく思ってないから『哀れだな』というカテゴリに入れたいだけなのだ(卑下したいだけなのだ)」と気づくとなかなかに難しい。カテゴライズしない方が人生、難しいよ。でもその分自分は歪まずに済むと思うな。

「色々ありそう」どころじゃねえよ

 もう訳わかんねえ事になってきた。
 猛獣のような子と知り合いになり、捨てたはずの古巣に全力で尽力する事を誓い、そして、今日は女性のような男性と知り合った。自分みたいな人間が沢山いるコミュニティにお邪魔した。何だこれは。
 友達が死んだ。それは恐ろしい程のショックと喪失感で、自分の世界がどこか違う所に連れ去られたような気さえした。思い出したのはまた4年前の事だ。その時は彼に助けられたが、世界がまるで裏返ったような錯覚を覚えた。そして今、その助けてくれた彼まで居なくなってしまった。そうしたら俺から見える主観の世界は、また違う所にズレ込んでしまった。
 そしてこれだよ。
 客観的な世界はいつだって変わらないが、主観の世界はいくらだって変化しうる、というのを実感するようになったのはいつの事か。とにかく、俺の主観は「彼が居なくなってしまった」世界になってしまい、その世界はもういきなり変な事がいっぱい起こっている。今日は心の底から混乱をした。新しい事が多すぎる。
 明日からはまた仕事だ。変な事はこれで一段落するのやら、それともまた何か起こるのやら。俺は、どこへ行ってしまうのやら。