新しいルート

 最近、物語を書く事を覚えた。
 と言っても、明確な筋や構想なんて無い。適当なキーワードや、今自分のいる場所をイメージして書いて、そこから指の任せるまま世界を繋げているだけだ。大抵は見た事のあるような場所を歩いていたり、あるいは誰かとお喋りをしていたりする。
 まあ、書き方としてはこのブログの書き方に近い。構想も何もなく、ただ書きたい事を書いて、なんか自然と話にオチがつく。違う所があるとすれば、この日記(のようなもの)は現在俺が思考している事を話し言葉でそのまま書いていて、物語を書く場合はそれを「象徴」として書く。
 例えば「仕事が辛い」と書きたい時は、ここで書く時は「仕事が辛い」とそのまま思った文章を書き、物語の場合は別の何かに置き換えて(連想する何かで)書き記す。人物が出てくる時があっても、それはあくまでも「象徴としての人物」であって、現実の誰かをイメージする事は無い。名前も付けない。設定も何も無い。「何も現実的なものと結びつけない」というのが重要な気がする。
 じゃあ、その物語は何のために書くのか。
 人に見せるためでは無い。人に見せるためだったら、もっと「それ用の」物語を書くだろう。筋も作るし、見せ場も作るし、何かしらの読み手のカタルシスを喚起させるものでなくてはならない(と今は考えている)。
 思えば会話も音楽も文章も物語も、俺はそういう風に「他人用」と「自分用」を完全に分けて作る傾向がある。そして最近は仕事で「他人用」を限界まで作っているため、現在プライベートでそういったものは一切作りたくない。
 じゃあ何のために作るのかと言うと、自分の本音を引き出すために書いている。不思議な事に、毎日つくられる物語(大体ねる前に15分くらいかけて書く)は途中から何かしらの「啓示」が表れてくる。展開がそうなったり、誰かが自分にとって有益な何かをしゃべったり。
 実は、ブログに書く以外にも俺はずーーーっと文章を書いていて、その時も「啓示」というか気づきのような事は最後にいつも現れてくれていた。基本的には同じようなものだ。ただし、文章を書く時は理性で思った事を積み重ねて書いて現れるが、物語を書く時は象徴を並べていった結果、現れてくる。つまり、物語は俺の「深層」に近づくための別のルートだ。
 その事に気づいて、俺は改めて人間の精神の奥深さに感動した。
 よく考えてみると、人間は生まれてから現在の事を全て記憶していて、脳のどこかにしまっているという。つまり、人間の精神(記憶の積み重ね)は刻一刻と拡張し続けていて、それは恐らく俺らが普段イメージしているよりも遥かに、本当に遥かに広いのだろう。普段、人間は別にそこを使用する必要はないのかも知れない(外界の生活の方が大体に於いて大切だ)。ただ、たまに俺のような内面に潜る手段を「知ってしまった」人もいるのだろう。そして、俺はその手段を現在を打破するために必要としている。
 俺は村上春樹がここ数年大好きな作家となっているが、それもとても影響を受けているのだと思う。彼の著作は、精神の潜り方を教えてくれる。

 現実的に言うと俺は今とてもしんどい状況にあって、おまけにこれから人生の選択をいくつもこなさなければいけない。
 思い返すと、過去にもいくつもそういう危機はあった。そういう時、俺はいつも本を読んで、文章を書いて、ピアノを弾いて、運動をしたり体の運用を模索したりしていた。今回の物語の作成も、大まかに言うと新しく生まれた「何とかするための手法」なのだろう。何とかしなければいけない。でも、その過程で生まれた手法は必ず別の形でも役に立つし、もしかしたら何か別の未来の道も作り出してくれるかも知れない。ピアノを弾く事が誰かのためになった時のように。文章を書いた事によって誰かと繋がれた時のように。