「自分」に合わせる。

 不器用って言葉はネガティブな単語が入るからあんまり使いたくないなあ。
 ピアノを弾く。「ピアノの弾き方」については毎回毎回新鮮な発見がある。最近は左手の各々の指の力の不均等さに気づいた。アルペジオで手首を返す度にテンポや強弱がデコボコになる。それを均等にするのは「バランスを取る力」であり、それは指ごとに違うパワーの出力を要求するという事だ。筋力は均等にはならない。ならば、出力を逆位相にしなければいけない。
 最近「一人で出来るもん」の派生としてコーヒーをハンドドリップで淹れるようになった。フィルターで豆を濾してコーヒーにする。一つ一つの行動が全て最終的なコーヒーの味に影響する。ふとした事でそこらへんの手抜きカフェとは段違いな味が出たりして、そんな時はかなりテンションが上がる。
 珈琲を淹れても俺には料理は出来ない。
 ピアノは決められた数曲ばかりで、新しい曲は覚えようとしない。
 もちろんやろうと思えば出来るだろう。でも、俺が自分の力を存分に発揮できるのって、多様性というよりかはシングルタスクで、それも「テンション」によってすぐにチャンネルが変わってしまう。「長持ちしないシングルタスクのチャンネルを沢山持ち、気分により切り替える」という感じで、それはやっぱり不器用な性分という事になるだろうか。
 それでも「不器用」という言葉はネガティブだ。仕事に焦点を合わせるなら「不器用」なのだろうけど、仕事以外の時間に於いてはそれは単なる「性分」であり「癖」という事で良いのではないか。それは、「直すべきもの」では無くて「性分に合わせれば快適に生きられる」のではないだろうか。
 最近、ようやっとその使い方の端がわかってきた気がする。基本的に足は遅いけど、悪いばかりでも無い。色んなチャンネルは、時に互いに影響し合って、「俺なりの」多様性がそこで生まれてくれる。
 効率は悪くても、それはそれで良いんだ。

行為の積み重ね

 10月24日。
 日々内面と戦っていますが、まあそれはさておき今回はランニングの話です。
 まず、最近ランニングを始めて、これがそこそこ続いています。と言っても一週間程度ですが。長い事部屋での軽い有酸素運動踏み台昇降とかスクワットとか)を続けていた事で走る足腰の基礎がそこそこ戻っていたのかも知れません。それと、下記の「気づき」から始めたやり方が体に合っているのかも。
 そのやり方というのは「距離では無く時間で考える」「肺が苦しくないペースで走る」「嫌になったらいつでもやめて良い」「目標を作らない代わりに、最低限のノルマはその日の体調に応じて作る」と言った感じで、要するに「頑張らない」ランニングです。ランニングというのはどうしても「辛い事を頑張る」というニュアンスが生じがちなので、その要素を限りなく抜いてみようと試みたわけです。
 俺の近所で一周大体900mほどのコースがあり、それはどの場所で終了してもすぐに家に帰れるようになっています。そしてそれをとりあえず一周くらいは走ってみる。息が切れないペースで。足はもちろん疲れていきますが案外その疲労は脳には届かないようです。
 一周走って余裕だったらもう一周走ってみる。もちろん「嫌になったらやめる」というルールは忘れずに。距離ではなく「疲れるまでの時間」を考慮しているので、ただボケーっとしながら足を動かして体力がなくなるまでの時間を待っているような感じです。日に日に「疲れるまでの時間」は長くなっていって、先日は疲れてやめるまで35分かかりました。距離にすると5キロでした。
 意外と走れるじゃないか、という達成感はあります。ただ、そもそもランニングを始めたきっかけは「運動を続けよう!」というだけのものだったので、達成感というのも善し悪しな気がします。達成感はより高い目標につながり、それは結局「より高い目標に届かずに挫折」になるからです。俺は過去これで何度も何度もランニングをやめており、その度に数年のビハインドを作ってきました。もちろん今回も来るかも知れませんが、それはなるべく一日でも遅らせていきたいものです。
 今回の方法の優れた所は、最初から最後まで「苦しい」という体験が無いため、ランニングに対するネガティブな印象を次回に持ち越さない事です。
 思うのですが、案外世の皆さんはランニングに真面目に向き合い過ぎなのではないでしょうか。「苦しさを越えた所に気持ち良さがある!」とか「ダイエットの為に頑張る!」とか、ンな事考えなくても適切な運動をしているだけでそこそこの恩恵はある気がするのです。そして「適切な運動」に「辛さ」はつきものだと考えられていますが、ぶっちゃけ「辛さ」は限りなく軽減する事が可能です。ペースをただ落とすだけです。しんどいと思うのは単に貴方のペースが自分の出来る範囲よりも速すぎるだけだし、ちっとも前に進まないというのは「距離」を目標にしているからです。必要な運動量は距離ではなく、強度と時間で決まるのだから、距離なんてハナから考えなくても良いのではないかと思います。
 まあ、もちろんどんなにペースを落としても「走る」という行為そのものが苦痛な人は世の中に多数いると思いますが、幸いにして足腰を使うという行為は普段から俺は自転車やら部屋の運動やらでクリアしていたようです。そういう意味では適正があるのかも。そんな訳で、今日もこれからいっちょ体力を抜いてきます。

買ったからには俺は消費者なのだ。

 連絡も取っていなかった10年(!)程前の友達がいつの間にか小説家デビューしていたので、早速その本をamazonでゲットして読んでみたはいいが、あまりポジティブな感想を言える自信が無いのでこっそりとリンクも貼らずに書いてみる事にする。ごめん某さん。
 物語はフリーターの主人公がふとした所で全く興味の無かった政治の世界にお手伝いとして携わる事になり…というもの。物語というよりもほとんどドキュメンタリーのような形を取っている。ある政治家が震災の中、出来る事に奮闘し、そこから皮肉にも世間に誤解が広がり、それによって窮地に追い込まれながらも目の前の選挙戦に向き合っていく。主人公はそれに共感し、内部から必死に応援する。
 正直に言うとかなり粗い小説だと思った。
 まず、文体のバランスの悪さが気になった。例えば「私はこの事に対して憤りを感じた」のような文章を「私は憤りを感じた。この事について。」のように何故か分割してしまっている。また、突然「あの××を」とか指示語が出てくるが、その「あの」が何を指すのか読んでてわからない。こういった事が多々あって、いちいち読んでて「ん?」と目が留まってしまう。
 次に、応援している政治家に対して「××『さん』」と敬称で呼んだり、参謀ポジションの人の行動の描写にいちいち敬語をつける(「説明してくださった」等)のに違和感を持った。主人公(=作者)は素直にその政治家を応援しているのだなと思ったのだが、どうしても読者としては政治家という生き物に対して主観的に見る事を憚ってしまう。反射的に距離を取りたくなってしまう。
 単純に実録政治ドキュメンタリーとして読んでみると、この物語に書かれている政治家に対して俺は全く共感が出来ない。善人というのはよく伝わってくるのだが、「仕事」としては感情的に過ぎるし、震災の対応、また、炎上の対応としては短絡的に過ぎる。主人公のように主観的に応援していこうという気にはなれなかったし、もしそれを狙っているのなら描写が足りない。「何も知らない」主人公が「一生懸命に政治を応援する」ようになる変化も読んでいてわかりづらかった。
 物語の進行についても不満が残る。後半の選挙戦について政治家の演説を長々と引用しているのに、選挙結果については数行しか書いていない。あの数ページを削れば色んな事が描けたように思えるし、他にもそういう箇所がいくつか見られた。全体的にバランスが悪いんだな。何というか、書きたい事を時系列ごとに書きたいだけ書いた、という印象を持った。
 正直な所、ここまでの俺の思った事ってそこそこの編集さんなら絶対に指摘すると思うんだけど、ちゃんと校正してんのか?タイトルとかデザインとか、出版社が売る気があるとは思えない。作家が意図しない扇情的なタイトルを出版社の戦略でつける事が昨今そこそこあって、それに対して是非はあると思うんだけど、本題に対してはある程度いじった方が良いと思う。某さんは物事を深く掘り下げるタイプの人で、象徴としてあのタイトルにしたと思うんだけど、いくらなんでも単語としては平凡過ぎて、正直俺は本屋でこの本を見かけたとしてもページを開く事は無かったと思う。リアル鬼ごっこ見た時は開いたんだけどね。
 で。
 某さんは(まだ期限が切れてないなら)友達なので良い所も挙げたいのだが、とにかく彼女は思考の深みと多様性、そして独特な感性を有している人で、本文の中にも「なるほど」と思う文はかなりある。ぷつぷつと切れてる独特の文体も上手くハマるとリズムが気持ち良いし、時折混ざる可愛らしいユーモアはまさに彼女ならではのものだろう。それが活かされるのはもう少し「物語」というものを書き慣れてからなんじゃないかなあと思ったりもする。もう2,3年くらいして経験値の上がった彼女の作品をまた見たいと思います。
 とりあえず色々書きましたが、俺は職業クリエイターというのはとても憧れるし、尊敬します。次の作品が出たらまた買うでしょう。がんばれ某さん。

 終わったーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー退職完了!
 まあ、普通に考えたら全くめでたい話じゃないんだけど、とにかく俺はメンタルにダメージを受けていたし、20代の大半をフリーターというかほぼニートで過ごしてしまった自分がキャリアを考えるには、もう既にアウト気味なんだけどこのタイミングで辞めるしかなかったんですよね。両方の事情があったからこそ、辞められたのかも。そうでなかったら美人の多い大学の職員という一見極楽のような環境から脱出する事は出来なかったっだろう。ホントに今日の終業までバタバタバタと走り回っていて、帰りのタクシーに乗りながら外観を見る事で、ようやくじわっと「あー、ここも最後かー」と感慨に浸った。異動だったらまだしも、退職っぽい終わり方では無かったなあ、と思う。それでも前職よりはマシだけどな。
 明日はとりあえず太郎の家に行って線香あげて、嫁と話して、それからだな。色々と。それから。

 まあ、生きてます。
 俺が退職するまであと一か月となった。その後はまだ予定が立ってない。運良く転職の目途が立てば8月か9月から次の生活になるだろうし、そうならなかった場合は…、まあ、また宙ぶらりんになるのだろう。それを自分自身が望んでる節もある。(だから困ってる)
 この半年間は自分からするとなかなかの地獄で、ついには現在、ピアノを弾かなくなった。と言ってもずっと弾かないわけではなく、休んでいる感じ。あんま体調が良くない時、俺は聴覚過敏を起こしてしまって、自分のピアノの音ですらしんどくなってしまうんだな。だから朝も耳栓つけて通勤してる。それと、今弾きたいピアノが無くなってしまったってのもある。(それは「今」と言うだけかも知れないが)
 仕事は休まずには行けてるけど、まあ、しんどい。繁忙期が終わって職場は幾分か穏やかになっているけど、まだしんどい。こういうのって、結局慣性で動いてるんだと思うな。何かが無くなったとしても、急に良くなったり悪くなったりはしない。ブレーキもアクセルも、徐々に変化していく。俺の場合は少なくとも半年は苦しんでいるわけだから、それが元に戻るのも一定の時間が必要になるんだと思う。それを急激に変化させようとすると、「無理」が生じる。無理は、体を蝕んでしまう。どうしてもね。
 まあそれでも自分は恵まれている方だし、完全に孤独となってしまったと思いこんだ半年前に比べるとそうでもないかなと思い直したりもする。大切な友人が居なくなったけど、それが「全て」では無い。どこにも行けないわけじゃない。別の友達にお話をしたら、ビックリするくらい心配されたりする。有難い話だ。その心配に応えられないのが、そこそこに申し訳ないのだが。
 今月で34になった。
 若くも無ければ完全におっさんにもなってない。より中途半端な存在になってしまった。オマケに仕事で積みあがったものも無い。でも、これから俺はあと一か月強迫と不安と残された仕事と戦いながら、「人生の武器」を見つけなければいけない。何も考えずに働けるなら何よりだけど、なかなかそうはいかないと、この一年間で学んでしまったものでね。

友達に会いに行きました

 GWは旅行にいかない代わりに、毎日を決めた時間に起きる事に決めた。今のところ、それは良い形で回っているように思える。
 昨日太郎の墓に行った。先月の太郎の家での集まりは行かなかったのに、何故一人で…という感じだが、とにかく行きたかったんよ、太郎の所に。で、それを「みんな」で薄めたり誤魔化したりしたくなかった。ホントは哲も誘おうかなとも思ったんだけど、ちょっとその後に所用があったから、まあ、誘うのはまた今度で良いやと。思いついて30分で家を出て、1時間半後には墓地に辿り着いていた。恐ろしく暑かった。他に一人墓参りしてる人はいたけど、すぐに居なくなってしまった。雲一つない晴天で、じりじりと日光が肌を焦がしていた。
 着いた途端、俺は泣いた。
 何で泣いたのかは、自分でもよくわからなかった。
 墓ってのは否応ない「説得力」がある。そこに友達の名前があって、それは墓標という形をとっている。そこに行く事で「会ってない」という曖昧なイメージを「死」という具体的な形に強制的に訂正された気がした。俺は泣いたけど、それは何というか、必要な号泣だった。自分の奥底になんとなく誤魔化して詰め込んでいたものを、正しい形で引っ張り出す事が出来たのだ。衝動は数分くらいで納まり、涙は拭いたら止まった。
 墓。
 太郎と嫁の親族(いわゆる見える人らしい)が言っていた「彼は居なくなってしまった」という言葉を俺は鵜呑みにしていたので、墓に行く事で太郎(の霊的なもの)に会えるという気はそんなに無かった。そこは純粋に「死という出来事」を象徴する場所だった。俺は今回の事が起こるまで、墓の象徴的な役割なんて考えもしなかった。
 俺は彼がここに居ないと意識しつつも、気が付いたら手を合わせて、随分長い事彼のために祈った。それから、ぽつぽつと、墓に向かって話しかけた。
 不思議なもんで、自分の現在の愚痴を言う気はあまり起こらなかった。俺の事、彼の嫁の事に対しては「心配すんなよ」という言葉で結論付けた。もちろん、俺も彼女も苦労するだろう。彼の死はそんな軽いもんじゃない。それから、彼の存在が消えた事で、世界には穴が開いて、ひずみが生まれてしまうだろう。でも、そんなの彼は考えなくても良い問題なのだ。もし死に「次」があるなら、彼はもう「次」に行ってしまっているだろうから。もしくは「まだ居る」としても、具体的になんか頑張る必要なんてないのだ。とか思いつつ、それでも俺は欲深いので「加護だけくれ」と曖昧な要求だけして、墓地を後にした。
 大体1時間くらいの滞在だった。ぶっちゃけ鬼のように暑かったので、それ以上そこにいるのがしんどかった。「墓参りって現実的に辛いもんだな」とも思った。GWでこの暑さなら、戻ってくると言われる彼岸なんてどんなに暑いんだろうね。周りが石ばかりだし、日蔭も無いし。クソ暑いんだから曇りの日だけ還ってくれば良いよ、と俺は思った。
 あるいは別に還らなくてもいいよ、とも。
 彼が今、余計な事など気にせず、どこかで自由になってくれていたら、それが何よりだなと思うのだ。

→大人

 ここ数年、自分の年齢を何度も何度も再確認する癖がついた。何でかなあ、と思うけど、改めて確認しなければ自分が30代の中盤に差し掛かってるなんてとてもじゃないけど実感できないからだろうと思う。
 最近、ピアノをそんなに弾かなくなった。もちろんなるべく毎日弾くように心がけてはいるが、とりあえず最低限の腕を維持するだけ、という感じだったりする。その代り外に出てる時にカラオケに一人で行く回数が増えた。長いと2時間くらい一人で熱唱していたりする。
 どう考えても「つまらない趣味」である。でも、自分には今のその「つまらなさ」の方がしっくりくる。即興の底に個性を目指して沈んでいくよりも、凡庸な表現を歌という手段で発散する方が現在に於いては間違いなく、健全だ。実際、驚くほどスッキリする。レパートリーはマニアックなものから、昔自分が聞いていた曲にまでスライドしていく。マイクから出る声は、そこそこ声量はあっても個性なんぞ欠片も無い、つまらない代物だと自分でも思う。
 昔の自分と今の自分はいつの間にか大きな隔たりが出来るようになった。昔は一つの事に深く深く沈んでいければ、他の事なんてどうなっても構わないとまで思っていた。今はとてもそれでは生きていけないので、つまらない事を覚え、つまらない事で発散し、それでも日々一枚ずつ一枚ずつ層を増やしていく生活をしている。気づいたらそれも5年くらい続いている。生きるか死ぬかの際を歩くなんて行為はとうにしなくなって久しく、代わりに広い横断道路を手を挙げながら歩いていくような感じだ。
 それが、俺が今体感している「大人」だ。
 スーツをオーダーし、カラオケに行き、たまにそこそこの値段のイタリアンに行ったりする、このくっだらなさ。書きながら自分の俗物さに笑いが出てくる。こういう風に今の生活を表現してるって事は、もう一人の自分が俯瞰して吐き捨てているんだろうなとも思ったりする。もっと刹那的になれよ、もっと天才を目指せよ、そんな声がどこかから聞こえる。いや、もしかしたらある方面からは実際にそう思われているのかも知れない。
 俺はよく年齢を反芻する。今年で34だ。ふとしたきっかけで二十歳の頃の自分の顔を写真で見てみたら、今とまるで違う、殺気に溢れた若者がそこにあった。あの頃自分は何を見ていたのか、案外覚えている。そして、あの頃にもっていたギラつきが、現在は全く違う別の何かに変換されてしまっているという事も、よく理解できる。「あの頃は若かった。今は大人になった」とも「あの頃は希望に溢れてた。今はクソだ」とも結論がつけられない。ただ見比べてみて「違う人間だな」としか思えないし、それに対してわかりやすい優劣をつける気は、とても起こらない。
 ただ、現在は間違いなく自分は「大人」側にいるのであって、それはクッソくだらない、凡庸な毎日から構成されている(たとえそれが苦悩に満ちていてもだ)。俺が自分の年齢を反芻する癖が無くなった時、それは自分の中にすっぽりと納まっているのかも知れない。そして、俺はその時間違いなく「大人」そのものになっているのだろう。