先に書いておくけど、俺は友達の一連の式(死んでから行う儀式)のほぼ全てに参加し終えて、一日経っても気持ちが納まらない。あるいは仕事のせいかも知れないし、それとは別に物凄く落ち込んだ出来事があって、それのせいかも知れない。あまり安定した状況とは言えない。それでも俺の行動の全ては「回復」の為に動いているし、今だって以下の不穏な文章を書きながら、太陽の下でだらだらと日向ぼっこを出来る自分を想像している。だから、こういう文章を書く事もたまには許して欲しい。
 さて、物騒な事を書く。俺は最近、死ぬ直前の話ばかりをよく連想する。友人が死んだ瞬間をよく頭に思い浮かべる。最近買った本に出てくる人間が死ぬ瞬間だけが瞼に焼き付く。自分が死ぬ時はどんな感じかななんて、よく頭に浮かべてしまう。
 自分が死んだ後は…という想像は昔からよくしていた。ただ、その「死ぬ」というのは実感の伴っていない、何となく漠然と「自分が消去された」後みたいな感じのものだ。自分がこの世界から失われたら、世の中はどう変わるだろうか、俺の周りの愛すべき人たちはどのようになってしまうのだろうかと。ただ、その考えを巡らせるといつも「というかどうせ俺が死んだら後の事なんて認識出来やしないのだから、そんな世界は無いものと同じだ」という結論に至る。
 で、友達が死んだ。彼にとって現在というのは、認識出来ない世界なのだろうか。それとも、どこかで(それこそ常識の存在しない何処かから)確かに世の中の何かを認識しているのだろうか。昨日、法事の最中に号泣した俺達を彼は見ていたのだろうか、それともそんなもの知ったこっちゃない、何かになっているのだろうか。どこかに行っているのだろうか。
 嫁さんが「×さんは火葬されるまで、そこにいたらしいよ」と言った。彼女の妹は所謂「見える人」で、告別式までは俺らと一緒に、会場の所に座っていたらしい。ただ、火葬の後は気配が見えなくなってしまったとも言っていた。
 それを聞いて、俺の頭はややこしくなってしまった。彼は死んだ途端に「無くなった」のか、それとも火葬されるまでは「在ったのか」、それとも火葬された後でも「居る」のか。死ぬってのは存在を「どう変化」させてしまうのか。
 一番の友達と自称してはいるが、実際に彼と会ったのは11月が最後だ。その後、俺にとって彼は「そこに居ない存在」だった。もちろん、それは何かのきっかけで会う事は充分可能ではあったのだけれども、まあ、俺は彼が居ない事には慣れてはいた。ただ、その時と、今この「彼そのものが失われてしまった」もしくは「彼が『死者』という抽象的概念に変貌してしまった」状態と何が違うのだろうか。ずっと会えない人と、亡くなってしまった人というのは、自分にとってどのような違いがあるのだろうか。
 一つあるとすれば、ずっと会えない人は忘却が出来るが、亡くなってしまった人は忘却が出来ないという事だ。俺は彼の死が焼き付いてしまった。今、そのショックからまだ抜け出せていないし、抜け出せた後でも何かが変わってしまっているだろう。
 昨日、納骨の儀式に参加している最中、「こんな事は人生で最後にしたいな」と一瞬思った。しかし恐ろしい事に、俺はこの儀式が初めてでは無かったし、これからも度々参加しなければいけないだろう。実際、ちょこちょこ俺の周りでも死が点在し続けている。今まではあまり意識していなかったが、彼が死んでから、気になって仕方がない。
 こういった文章を書くと必ず過剰に心配する人が出るから、あんま書かない方が良いんだが。というか、書いて後悔して消すかも知れないが。まあ今回の件で、俺はあと30年は死ねねーなと強く思ったのでひとまずそこは安心してもらいたい。
 乗り越えるだけの材料が足りない。あったような気がしたのだが、それがちょっとした事で消え去ってしまった。職場は相変わらず俺にとって不穏なもので、さっさと去ってしまいたいがなかなかそうもいかないみたいだ。足元も、空気も、自分にとって安心できない。
 俯瞰して見てみる。俺は結構今、谷底にいる。 一か月くらい仕事を休んでしまいたいな。ゆっくりとした時間が俺には必要だ。無駄を沢山積み重ねて、その濁流で一度洗いなおしてしまいたい。そうすれば、もしかしたら新しい何かを始められるのかも知れない。また五年も何もしないのは勘弁だから、なかなか決断する事は出来ないけれど。