5日目

 今日は通夜だった。
 やばかった。もう泣くのをこらえるとかそんなレベルじゃなかった。大輪の花に囲まれて、自分の親友が笑ってるんだ。写真で。んで、その下には気丈に耐えてる嫁(友達)がいるんだ。隣が後輩だったとか全く関係なく、号泣してしまった。
 その後は同期のみならず、古巣の人たちと一緒に飲む事となった。俺は上機嫌になった。口も乗ったし、今まで会ってなかった連中が成長しつつ健在であるのは嬉しかったように思う。
 ただ、一人になってからとてもとてもつまらないと感じた。別に彼らが悪かったわけでは無い。俺は嘘を吐いていた。俺は辛気臭い話を人とするのが大嫌いなので、太郎に対しての悲しみを共有しないで、なるべく皆が楽しくなるように、面白くなるように話をしていた。俺は本当はそんな話をしたかったわけじゃない。というか、俺は話がしたかったのか?一番話がしたかったのは、太郎だ。
 また話がしたいなー。太郎と。俺はあいつと酒を飲むのが一番好きだったんだ。

4日目

 ちょっと落ち着いてきた?かな?
 今日は日曜日。昨日は太郎の家に行って、本人と会ってきた。一回会っておきたかったのだ。それまで俺はメールというバーチャルなシステムでしか彼の死を認識できなかったし、想像は想像を呼び、どこまでも恐ろしいものに膨らんでいきそうだった。その前に、一回現実を確かめたかったのだ。一人で行くのも悪いかなと思って友達を誘って行った。
 太郎は太郎だった。もちろん、亡くなってるけど。目の錯覚で寝息で体が動いているように見えた。錯覚だ。でも、想像よりもきれいな状態だったし(エンバーミングというらしい)普通に眠っているように見えた。家に入った瞬間に線香の香りが漂ってきて、「ああ」と思った。この香りは、知っているものだ。
 俺は、彼の姿を見て「安心」した。
 合間合間に涙が噴出したが、それは「動揺」によるものでは無かったと思う。太郎はそこに居た。俺は彼の顔をずーーーーっと見ていたかったし、一緒にいる事で落ち着いた。俺は今までも、太郎と一緒にいる事で安心していたのだ。だから、やっぱり会う事で俺は何かが一段落したんだと思う。まあ、勿論精神的ショックで体に異常は出ているが。
 本当はね、ジャズ研とか関係無いんだ。俺は彼を偲ぶ「その他大勢」になりたくないと思った。物凄く個人的な、エゴ丸出しの、ワガママだ。あいつは「集団(仲間・友達)の中の一人」では無かった。俺にとっては「彼というかけがえのない個人」が、大切な存在だった。だから、俺は彼にはどうしても心の中でも、優先して、メッセージを送りたかった。だから手紙を書いた。ついでに嫁にも手紙を書いた。行く人に向けて、そして、これからも生きていかなければいけない人にも向けて。太郎向けの奴は一緒に燃やしてもらう予定だ。んで、一緒にもっていってもらうのだ。
 人生ってのは得て、喪うものだよな。
 でも、残るものはある。人間というのは、「影響」を受ける事によって自分の体を変化させていくものなのだ。だから、彼の残響は俺の体を変化させて、それは俺の血肉となっていくのだろう。それは、死んだものがいずれ大地と一緒になって、次の生命を形作っていくように。俺の中に彼は確かにいる。「死は、生に含まれている」。俺はあいつと話したくっだらない事、下世話な事、ゲラゲラと笑った大きな笑い声を背負って、これからも生きていくんだ。

アホ抜かせや

 最近色んな仕事の嫌な話がやっと落ち着いてきて、体調も良くなってきたなあと思った矢先、ありえない訃報が届く。今はそれを聞いて、二日目。
 俺の、一番の親友である。
 どんな奴かって言うと本当に「普通」の奴だった。普通ってのは何だろう、世の中の真ん中を歩いているような、俺が思う世間の「王道」を歩いているような、そんな奴だ。それを保つためにどれだけの努力をしているか、どれだけ健全な人格を有しているか。でもそんな所は全く人に見せず、ただヘラヘラと笑っているような奴だった。
 4年前、俺が前の職場をクビに近い形でお払い箱になり、情緒不安定になっていた時に話を聞いてくれた事がある。何故か秋葉原に行こうという話になって、俺の愚痴を聞いてもらう予定が「俺、みおたんのフィギュアが欲しい」という寝言をいきなりいいはじめ、その後2時間近くアニメショップを連れまわされた事をよく覚えている。あの時は心底こいつアホだなと思いつつ、あのいちばんしんどい時期に話を聞いてくれた事ではっきりと「人生の恩人」だと認識して、それは今だってずっと思っている。
 最近は会っても本当に馬鹿話ばかりしていて、合間に仕事の愚痴を言ったりしていた。男友達で怪しい温泉旅行いこうぜーって話を去年からしていたが、その日程はなかなか合わず、結局今に至ってしまった。というか、昨日訃報を聞いた日、本当は「じゃ新年会しようぜ」という話をしようと思っていたのだ。最後のLINEは「ipadでテレビ電話って出来るの」という話だった。普通だ。見直しても、普通過ぎて感想が出てこない。
 本当に月並みだが「何かの冗談だろう」と思った。「親友が事故で亡くなるなんて」「まるで古臭い漫画みたいだ」
 今、こうやって話を「まとめる」事によって、今俺は「生き続ける」準備をしている。それをしない限り、自分がどうにかなってしまいそうだからだ。
 実際、びっくりするくらい泣いた。泣くなんて滅多にない「ものわかりの良い」俺が泣きまくっている。一人でいると少し落ち着いていても、電話をすると必ず泣いてしまう。
 今、仕事場でこれをこっそり書いているのだが、ぶっちゃけ仕事があって助かった。何もなかったら、なあ。泣くよ。でも、泣いてばかりもいられないし、とは言え「簡単に乗り越える」事にも強い抵抗がある。まだ葬式も済ませてないんだから。
 正直、心の有り所に迷っている。
 早く太郎に会いたいよ。まだ俺はメール貰っただけなんだから。あのバカめ。

打ちひしがれた毎日とちょっとした出来事と

 今年は仕事で自分の自信(元々無いが)を打ち砕く事ばかり起こっていて、無力感に苛まれていた。というか現在絶賛継続中だ。この土日も土曜はひたすら寝ていて、今日は動かない体を無理やり動かして美容院に行った。
 そこで小さな事が起こった。長年お世話になっている美容師さんと今日は特に会話が噛み合って、その会話を聞いている第三者にかなりウケた。その時は何とも思わなかったが、その後カフェでコーヒーを飲みながら、少しずつ自分に自信というか達成感が広がっていくのを感じた。
 このブログを読んでいる人(一月に2人くらい?)がどういう人なのか今はもうわかるようでわかっていない。俺が追い出された古巣にいた人なのか、それともその前からの知り合いなのか、それとも完全に知らない人なのか。でも、実は俺は即興ピアノをやる前にこだわっていた事は「会話」だった。1対1の会話をどれだけ軽妙に、面白く出来るか。10代の頃はそんな事ばかり考えていた。
 その「会話」は「間を読む事」に繋がり、それはピアノにも文章にも派生するようになった。下世話な事を言えばセックスもその派生の一つだった。それで何でも出来るように感じて、そのまま調子に乗り、その後就職して何も出来ないように感じるようになった。その間色々な事があった。良い事もあったが、悪い事も沢山あった。
 今日は本当に小さな出来事だったが、その「原点」にスポットライトを当てられたような気がした。
 人と話す時、どういう行為をすれば「自分と相手」が「面白い空間」になるか。相手の口調のテンポはどのくらいか、どういう癖を持っているか。どこで押して、どこで引くか。別に口説きたいとか好かれたいという訳ではない(無くは無いけど)。そうじゃなくて、如何に目の前の人を巻き込んで「素敵な共同作業の空間を作成できるか」。昔、俺はその事に没頭していたし、実際にそれでそこそこの場所には到達出来ていたと思う。何よりも、とても楽しかった。
 俺もこんな自信(エゴ)が残ってたんだと思った。
 今の仕事は多種類の小さな仕事をチョコチョコとこなし、一日に何度も何度も横やりが入り、同僚は不穏な空気をにじませ、上司からは辛いと思うスピードで仕事と判断を要求されている。その上、今週は自分の美学に反する事を行わなければならず、多大な不満と落胆、緊張、不安に囲まれて仕事をしなければならなかった。これが「仕事」だと言うのなら、俺に合う仕事は無いんじゃないかなんて思う事も度々あるし、それは明日かも知れない。積み上げられた未着手の書類に爆弾が入ってないかどうか想像するだけでも胃が痛くなる。
 自分はピアノがあった。しかしそれは最近練習が怠りがちになっていてとても自分のエゴを満足させるものではなくなっているし、それが開花する場所も今は無い。(ジャズは上手くなればなる程自分の好みではなくなってしまう)興味が薄れてくる。危機感を感じる。
 でも、もしかしたら自分はピアノだけでは無かったのかも知れない。その根っこに、まだ自分の特技があったのかも知れない。好きな事があったのかも知れない。それが自分の中に残っていれば、また新しく幹は伸びていってくれるかも知れない。
 そんな風に思った12月21日だった。
 ぶっちゃけ来年には今の仕事を辞めようと思っている。次を考えようと思っている。その時に、今日感じた事がヒントとなって、次をもう少し自分の満足がいく形に出来たらなと、今日は少しだけ前向きに考える事が出来た。

SNSの使い方(家族編)

 今うちの母ちゃんと話した事覚書。
 ウチは3兄弟で兄二人が既に結婚してるんだが、ついこの間結婚した長男が埼玉に引っ越してしまい、連絡もあまりとらないので母ちゃん少し寂しがっていると。んで次男どうかって言うとウチのすぐ近くに住んでいるので頻繁にウチに来ているし、それ以上に子供の写真を撮りまくってkazocという家族専用SNSに写真を撮っているので寂しさは感じず、むしろ頻繁にコミュニケーションをとっている印象すらある。
 んで。
 「子供たちが独立して親が孤独になる」というのは社会問題にすらなっていると思うんだが、それを防ぐためのSNSを使うというのはとても良い事なんでは無いかなあと思った。
 具体的に思いついた方策だと、例えば家族専用のSNSがあって、そこに定期的に親族(長男夫婦二人、次男夫婦三人、俺、両親)が更新をすると。で、更新もいちいち考えるのも面倒臭いので、例えば食事の写真とかを載せるのはどうじゃろか。手間もかからないし、それでいて「今何をしているのか」というのもイメージがつくので、特に返事をしなくてもつながる事が出来る。家の食事に自信が無かったら食後のコーヒーとかお茶をアップするだけでも良い。
 昔は本当にマイペースの集団だったんでろくにコミュニケーションを取らなかったのだが、不思議とウチの家族はここ数年、すごく仲が良い。この繋がりってのは無理にアピールする必要はないが、大切に維持しても良いんじゃないかと思う。んで、ここ1年で次男に子供が出来てkazocで近況を報告するようになって、両親の行動が物凄く変化した。端的に言うと、ipadを異常にチェックするようになったし、毎日何かしらで顔がニマニマするようになった。これは、たとえ距離が離れていても、電話もメールもろくにしなくても繋がる事が出来ているって事では無いかと。んで、「繋がる」って事はやっぱり人間の心理に良い影響を与えられると思うのだ。過干渉という副作用はあっても。
 うーん、もうちょい話を具体化してみたいなあ。めんどくさくない、でも家族には欠かせないSNSの形。

仕事について

 仕事についての愚痴を書くよ。
 あらすじとしては現在某担当をしている某君がめっためたな仕事をやっていて、他が何とかフォローが出来たけどいい加減ブチ切れていてこれからどうなるやら、という感じ。俺も仕事こなせてるかって言うと全然こなせていないんだけど、彼の仕事を少しずつ引き継ぐような話をちらりと聞いた。某君はもう顔の筋肉が動いていないし、これでうつ病にならないのが不思議だなってくらいの状態でやっている。
 てか、俺からすると「ここまでの惨状で何とかこなせてる」のが逆にすげえなと思うんだが、周りはそう考えていない。俺は5月〜6月の間で地獄を見たけど、その時と彼の現状を見ると、明らかに彼の現状の方が「ひどい」。それは要するに俺の精神的なキャパが激狭って事でもあるんだけれども、彼が意外と打たれ強いんではないかなて事でもある。俺ついには精神科で薬処方してもらってたからな。彼はよくやってると思うよ。(ちなみにその時もらった抗不安薬は大層効いたので追い詰められたらさっさと行くと良いと思いました)
 で。
 まずは俺の現状について考えてみる。最近やっと気づいたんだが、仕事を「いつやるか」というのが異常に大事みたいだ。というのもウチは横やりの仕事がとても多く、現在取り掛かってる仕事がしょっちゅう後回しになってしまう。扱う範囲も広すぎる。本来やりたい事がちっとも進まないのに、例えば掲示貼り付けみたいな些末な仕事が「え?溜めて大丈夫なの?」という規模に膨らんでいて、それが俺の精神を不安定にさせてしまう。「溜めて一気にやろう」は本来は効率的なのだが、それでは駄目なのだな。横やりが多すぎて「一気に」がちっとも出来ない。なので、些末な仕事はその日のウチに片付けるのが良いのではないかと考えた。これは明後日から試しに取り掛かってみる。
 某君の惨状については色々と思う事があって、彼の責任にばかり押し付けるのも酷では無いかと思う。というか、5人チームでそれぞれ専門の仕事をやる、という方法に何かもう少し良いやり方は無いものだろうか。この方法は各方面の仕事をそれぞれが「キチンとこなせる」事が条件となるが、彼は出来てないんだよ。何故なら、彼のキャパを遥かに超えてるから。そして、彼の「指向」に癖があるから。たぶん彼は俺と同じくマルチタスクの出来ない人間で、それに対抗しているだけで本来すべき事が後回しになってしまう。
 「正しい判断をする」「すべき手順をこなす」をやれば仕事ってたぶん回る。俺は「すべき手順をこなす」事についてはそこそこ早い自信はあるが、判断力については相当に疑問点がある。彼は外部に切り込んでいくのはそこそこ得意だけれども、判断と手順に対してはかなり疑問だ。それは、おそらく今まで仕事をしていて過去を振り返ってブラッシュアップする事を怠っていたんではないかなとも思うが、おそらく「こなしていく」事で精一杯だったのかも知れない。修羅場は人を鈍化させるからね。それで「出来る」人は出来るようになるが、出来ない人は「より出来ない」ようになる。
 んで、正しい手順ってどこまで自分で出来るようになるの?て思うんだよね。何も知らない状況からだとやっぱり先輩から手とり足とり指導してもらう必要ってあるんじゃないかな。彼はいきなり前担当の人から「一ジャンル全部」を継がされて、しかも入職した春は一年で一番の修羅場だ。俺のように仕事量を手加減してもらう事も無く、いきなり放り出されて、当然判断ミスを頻発し、それがずうっと続いて現在に至る感じ。
 じゃあどうすればいいの、て所で飯に呼ばれてしまった。
 仕事ってどこもこんな感じなんだろうか。人員に余裕が無い所は、どうしても仕事を工夫する必要があると思うんだけれども、ウチはそこを怠っていないだろうか、と思う。俺からすると上の三人は有能で、彼がグダグダになっても(ブチ切れながらも)キチンと引き継いで穴埋めが出来ている。しかし、悪循環になりまくってしまった彼をどう扱うかは後手に回っている気がする。
 後手。彼の仕事は全て後手に回っているし、それをフォローする人たちも後手に回っている。結局、全てが回らなくなっていく。じゃあどうしたら良いのか。
 ぶっちゃけ俺らの仕事って8割は「左にあるものを右に動かす」程度のものだ。だから「出来てない」ってのは要するにやり方が悪いのだ。もちろん時間もエネルギーも足りてないってのもあるだろうけど、何だろうなあ。上司、先輩方と下の俺の見方はだいぶ異なる。俺はやり方が悪いし、彼もやり方が悪い。そして、マネージメントという事に関しては上司のやり方も上手くいってないように見える。ウチの職場は「嫌な奴」は誰もいない。皆が善人だと思う。それでもこうなってしまうんだから、仕事をこなしていくのって難しいよな。

マッサージと私


 「と私」とつけるだけで大体自分語りっぽくなって便利。
 最近変に疲れが残るようになったからマッサージ屋に通う事にした。と言っても前回行ったのは3週間前で、今回でまだ二回目。60分4000円という異常に安い値段の割に前回満足したので、こういう所があると重宝するなあ、と、いそいそ町田へ。
 今回ついたのは口下手な色黒の兄さんで、マッサージが完全にパワータイプだった。マッサージというのは本当に不思議な代物で、完全に同じタイプの技を出される事が今まで一度も無い。今回は、あれだ、もう筋肉のストレッチとかカイロとかそういうのが全くなく、ただただ力技の指圧の連続で、寝る隙間すらありゃしなかった。「あんま凝ってませんねえー」とか言いながら肘でゴリゴリ押してきやがった。ギリギリ痛くない。しかし「ザ・無骨!」て感じで、何というか柔らかいリラックス感が全く無かった。
 まあ、「凝ってないですねー」とか言われても俺からすると息苦しさを感じるくらいだったからマッサージ屋行ったわけで、それを明らかにお前体重が俺よりも更に20キロくらい筋肉とか脂肪で重めだろみたいなやり方でやられても困ってしまう。人体って、そんな乱暴にやっていいものじゃないと思うの!とか思うのは、俺がこの歳になってそこそこ自転車で運動してるのにも関わらず貧弱だからだろう。
貧弱君はソフトでスマートな、そして効率的なやり方を欲しているよ。
 という訳で寝る。