「博学」の価値


 「ものを良く知ってる人は凄い人」という価値観はどこまで根づいているのか良くわからない。もしかしたら大した扱いを受けていないかも知れないし、俺の友達のように「良く知ってる人以外は馬鹿」という認識の人が意外と多いのかも知れない。
 こと音楽に関して言うと、沢山の知識、ノウハウを自由自在に使える人は確かに立派で華麗だ。だが面白くない。俺が「面白くない」と断言してる音楽*1は大抵「博学」を生かした演奏だ。ジャズなんてそんなのばっかりだ。面白くない。反面、稚拙な技術でも「今思いつく事、発見した事を全て発揮する」演奏は面白いと思う。下手でも面白い。もちろん、知識も技術も無く閃きも集中も無い演奏は論外で、聞くに値しない。
 ただ、本質を求める演奏はいつだって地味で難解だ。
 自分が即興をする時に一番悩むのはその「技術」と「本質」をどれほどにブレンドするかと言う所だ。本能に忠実に、本質をひたすら掘り下げていく音楽を100%追求すると、きっと意味不明な音楽になるだろう。当然、客は聞いていて「つまらない」。では面白くしてやろうじゃないかと技術をプラスする。やり過ぎると今度は自分が「つまらなく」なる。自分がつまらなくなったと思った瞬間に音楽は魂を失う。結果的に客にとっても「つまらない」音楽になる。
 これが演奏する上での「博学」の取り扱い方。では聞く側の「博学」はどうだろう。沢山聞いて沢山の感性を開いているならばそれは良い聞き手なのだろうと思う。だが、重要なのは「どれほどの深く広い感性」が沢山の知識によって広がったかであって、知識量「そのもの」では無いと思う。読書にしてもそうだ。そこからどれだけ「学び、考える事が出来たか」が本人の価値につながるのでは無いか。多分、「知識が頭に入っている」事自体は大して価値が無い。そんなものはグーグルにでも任せておけば良いと思う。
 良い演奏をして、良い聞き手になりたい。それはでも自分の自尊心を満足させる為では決して無いはずだ。何かを通じてより「根源」に近づく為の手段なのだと思う。そしてその「根源に近づく」事に価値を置くかは、全く本人の自由なのだ。

*1:あくまでも主観の上での話だが