才能


 最近面白い話を聞いた。とある小学校の図工の先生なんだが、年間で数人は「明らかに才能のある子」というのが出てくるらしい。で、その子達の中には家庭環境に問題がある子もいて、ある日、そのとある「才能のある」子の家庭問題が解決したらしい。んでその後どうなったかというと、「ビックリするくらいその子の絵が普通になったんです」。
 最近、言っちゃなんだけど「才能の枯渇」というのを時々考える。
 枯渇というか、移り変わりというか。というのも、俺は今30を優に超えて(優ですよ!)20代にやっていた「異常なピアノ」というのはかなり鳴りをひそめたと思う。というか今やってるのはクラシックだしな。ジャズをやめたって事は全然無いし今でも弾いてるんだけど、昔のような何というか、奥へ奥へ行く表現というのはしなくなったし、ぶっちゃけ興味も薄れてきた。
 で、俺如きと比べるのも申し訳ないんだが、andymoriの小山田さんが自殺未遂した時に「ああ、枯渇したんだな」とはっきり思った。俺はandymoriというバンドを心から愛していたんだが、ある時点から異常さが無くなって、普通の優しい音楽を奏でるようになった。んでしばらくして小山田さんは脱法ハーブで暴れ、解散を決定し、その後に衝動的に身を投げた。
 その「枯渇」する、もしくは「移り変わる」というのは凄くよくわかる。何というか、あの20代特有の「死ぬかも知れない」感じは、ある時期まで生き残って強くなっていくと消えてしまう。「はじける」事ではなく「続ける」事をメインに置いてしまう。すると、その「才能」と呼ばれたものが少しずつ「閉じて」いくのだと思う。
 ただ、それは一概に「才能が枯れた!」みたいなネガティブな言葉で言ってよいのかわからない。人間は慣れていくし、鈍くなるし、強くなる。強さと引き換えに消えていくなら、そう悪い交換では無いと思うのだ。知り合いの某さんは昔紛れもない「天才」であり「化け物」であったけど、それは人間としてギリギリを保っていたがゆえの才気だった。で、彼女は生き残る事を選択し、今でもまだ異常だけどもそれでも昔と比べて平凡になった。昔を知っている知り合いからは「つまんなくなった」と言われるらしい。じゃあ、彼女の選択は間違っていたのか?いや、大人になったのではないか。生き残ったのではないか。
 更に比べるのもおこがましいが椎名林檎という天才はある時から俺からすると「つまんなくなった」。でも、そのつまんなさは商売としては間違っていても、人間としては正しい成長なのかもしれない。そして、小山田さんはその事が理解出来れば死ななずに済むかもしれない。


 表現のために死んでも良いという自尊心、功名心は俺は持ちえなかった。それよりも俺は生き残って、もっと知りたいのだ。
 さまざまな事を。