意味


 やっと到来した夏休み初日は何もやる気が起こらなかったのでひたすら寝て、んで起きてからピアノをひたすら弾いた。
 最近流行りの音楽を聴いて反吐を吐きそうなくらい嫌悪をもよおし(KREVAさんを憎んだ時と似たようなパターン)それからピアノを弾いて、価値のある演奏とはどういうものだろうと思ったりする。
 もうずうっとピアノばかり弾いていて、時には人から高評価も頂いて、でもジャズの世界にはいつまでも馴染めないというか受け入れがたい何かがある。今日は母校の演奏会だと言う。去年まではあそこに通っていて、自分の演奏を誇示していた。それくらいしか自分のピアノに使い道が無かった。あの時俺の演奏は彼らにとって価値があったのだろうか、それとも「同コミュニティのアマチュアの中で異彩を放っていたから」価値があったのだろうか。今でもわからない。
 自分は派手さやテクニックを誇示する演奏が好きでは無い。だから上原ひろみは超絶に凄いと思うけど「死ぬ!」とハマる事は無かった。対してシンプルすぎるメロディのandymoriにこの2年ほどハマっていたり、Jhiphopを未だに聞いたりしている。SEKAI NO OWARIは大嫌いだし、きゃりーぱみゅぱみゅは可愛いと思う。ジャズは、もう何年もまともに聞いていない。
 7月に二回、ジャズのセッションに行った。そこで強く感じたのはストイックさの欠如だった。逆に、去年の母校の学祭でゲストのバンドがやっていたのはストイックさの凝縮とも言えるものだった。両方とも俺とは「分かり合えなかった」。じゃあ俺が「価値のある」と思える演奏はどういうものなのか。未だにわからない。大学にいた頃はとにかく自分のレベルアップ、音楽性の向上を求めていて、それは卒業してから数年続いた。今でもピアノを「弾く」事は俺にとって途轍もなく価値があるし、そこから得るものも沢山ある。
 ここでグッダグダ書いてて少しでも答えが出たらなあ、と思いながらキーボードに指を走らせている。
 たぶん、俺が他人の為と自分の為という二つの目的が完全に合致した演奏が出来て、それが「誰か」に「受け入れてもらった」時、そうしたら人生の、少なくとも「音楽」の目的は達せられるのだと思う。悲しい事に、その目的は未だに何もかも達成できていない。自分の演奏と他人に喜ばれる演奏の融合は途轍もなく難しいし、見た目や所属(まるで去年まで俺が手放せなかった母校のコミュニティのような)に左右されないで「受け入れてくれる」受け手を捜す事は更に困難だ。
 最近は満たされない事が増えてきたので、皮肉にもピアノの腕がまた上がってしまった。今回の夏休みの間に更に向上してしまいそうな気がする。でも、腕とか表現「力」とかって何だろう。テクニックを誇示するピアニストなんて見た目が派手なアイドルと何にも変わらない。俺が目指すものは内面と外面の一致であり、それと他人との疎通なのである。