表現の触媒としての「ピアノ」と「ピアノを弾く指」

 久々に家の生ピで2時間くらい弾けて楽しかった。
 何度も書くが最近弾いているものは8割がクラシックだ。そして「何度も書くが」と前置きするくらいにはその事に自分自身が慣れきっていない。去年から始まった変化だが、それが自分の中でダイナミックな変化を及ぼしている気がする。
 俺の中で「繰り返す」という事はとても大切な概念だ。同時に、「0から即興する」というものもとても大切だった。それがクラシックを弾くようになってどう変わったか?というのを弾きながらよく考える。「クラシックを弾く事は創造だろうか?」
 ジャズの時はモチーフをもとにアドリブを最初から作り直しているが、クラシックは弾く時点でメロディは「出来上がって」いて、新たに創造する必要はない。だから、何度も繰り返しながらモチーフに呼応する「自分の美しいもの」を徐々に浮かび上がらせていく。そのために指の動きが足りなければ、そのための練習をする。
 俺は18までクラシックピアノを弾いていて、それは「レッスン」という形で行っていた。当たり前だが、レッスンでは先生が常に横に座っていて、彼女が「こうした方が良い」という形に常に指導をする。つまり当時の俺のクラシックピアノには「正解」があって、それがたまらなくつまらなく感じた。楽しい!と思ったのはレッスンから離れて誰かにピアノの腕を見せびらかせる時だけだった。とは言え、当時の人間関係からの逃避として徐々にピアノにのめり込んでいった時、すでに俺の「中」でモチーフとの呼応は始まっていたのではないか。そんな風にも今になって思う。
 ジャズピアノは大学に始まってから始めた。とてつもなく自由で、これこそが自分の表現の道だ、と思うようになった。二十歳になってからの数年間は自分で言うのも何だが傲慢で、妥協を許さず、その癖自分には甘かった。ジャズピアノという「題材」から生まれる自分の世界をとにかく膨らまそうとして、それと外界とのギャップにいつも苛立ちを持っていた。それは周りはジャズという「音楽」を好んで集まっていた人たちだったが、俺はあくまでもジャズは「自分」を表現する媒体に過ぎなかった。だから本格的なジャズの技法には興味がなく、未だに大した事が弾けていない。自分に出来ていたのは、自分を表現するために思いつくものばかりだった。
 自分の表現が「自分なりに」頂点に達したのはやはり暗点で(真っ暗な中で二人で完全即興を行う)、それ以降は自分の中で何かが衰えたような気が常にしていた。
 で、今俺は30代に達して、またクラシックピアノばかり弾いている。今日はジャズも弾いたけどね。
 最近学んだ事は、人の奥底には「何か」が蠢いていて、それを引っ張り出す事が「表現」なのだという事だ。昔は完全即興こそが「表現」だと考えていたのだが、今はクラシックも意識的に表現の媒体にする事が出来るようになった。だから楽しい。人と同じ事をやっていても、実はそう見せかけてオリジナルを弾いているのだ。
 んで、その媒体にクラシックを弾くようになった理由は単純に30代になって「瞬発的な集中」を好まなくなったからだろうな、とも思う。衰えとも言えるし、落ち着きが出たとも言える。今の俺の生活は「連続」しているものだから、少なくとも今の生活が続く限りは、一回一回死に近づくようなダッシュは必要が無いのだ。
 もちろん生きていれば状況は変わるし、また俺が刹那的な生き方を選択するかも知れない。ただ、どう変わっても表現を行う触媒である「ピアノを弾ける指」を維持しなければいけないので、今日も明日もピアノは弾き続ける。
 ピアノさえ弾ければ、どうにでも表現は出来るのだ。俺は本当に色々足りない人生を送ってはいるが、その事が見つかったのは幸運だと思っている。