生きるための「表現」

 「朗読」という表現方法を思いついてみたので試しに風呂の中でやってみた。思ったよりも良かった。
 何でこんな事を思いついたかと言うと、やはり最近クラシックを弾いているからだろう。きっかけは実質的なもの(グランドピアノがいつでも弾ける)だったけれども、今ではジャズには無いクラシックの良さに惹かれている。それは何かと言うと楽譜(モチーフ)を「解釈する」という表現方法だ。ゼロから表現を反射的に「引きずり出す」のではなく、メロディの「記号」から文脈を膨らましていく。その解釈の方法に正解は無い(と俺は思いたい)。なぜなら、「どうやって解釈していくか」こそがまさに表現だからだ。今日思いついてみた朗読なんてのは、まさにそれに連なるものだ。
 かつての俺は「創作(オリジナル)」という事に並々ならぬこだわりを持っていたが、じゃあ「モチーフを利用する」という行為でそれを撤回してしまったかと言うと、別にそんな事は無い気がする。というのも、本格的にクラシックを弾くようになってまたレッスンを習う事も考えたが、凄くそれに対して反発心が起こるからだ。何故なら、指導を受ける事によって「解釈」を人に任せてしまう事になる(ならないか)。そうとも限らないけれども。でも、そういう危惧を感じてしまうくらいにはその「解釈」というものにはオリジナリティが必要だとまだ思っているみたいだ。
 それは、俺が表現というのを他でもない「自分」の「奥」から引っ張り出していく作業だと思っているからだ。その為の技法は学んでもいい。しかし、肝心なものを人に頼ってはいけない。そう思っているから、ずうっと俺の表現というのはあくまでも個人的なもので、結果的に表現を絡めたものに関しては必ず「孤立している」。それはジャズでもそうだった。俺は表現に対して人と横並びになる事を全く望んでいない。
 人には、少なくとも俺にとっては「表現」という手段は絶対に必要で、それこそが自分をかろうじて保つものだ。普段、外の世界で外の世界の為に生きている。しかし、内側の世界はその最中も絶えず蠢いていて、俺の肉体に影響を及ぼし続けている。それは俺を勝手に浮き足立たせたり、意味もなく消沈させたりする。その訳のわからないものは俺が思春期になる頃からずうっと強い力を持ち続けていて、それと「折り合いをつける」には表現を行うしかなかった。そして、俺は表現と思索(内側を探る行為)を繰り返し行う事で、「識る」事を深めていく事が出来るようになった気がする。
 そうしたから、自分は生きてこれた。そして、形はその時々の自分に合わせて変わっていくにせよ、俺には表現が必要だ。それはどこまでもパーソナルなものであり、「たまたま受け止めてくれる人」が居ない限りどこまでも孤立すべきものになる。