ひっさびさにセッション行った


 地元の店が楽器セッションやってたので数年ぶりに行ってみた。昔行った時は俺以外全員ボーカルという地獄を味わったものだ。しかもドラムレス。さすがにド住宅地のせいか、行ってみたらホスト3人に客が二人という状況。ピアノはホストの人以外俺しかいなかったので大学の部活並に弾かせてもらって2時間半しかいなかったのに大満足でした。まあ、ピアノの音はひどかったけど。アンプ入れても良いと思うんだけどなあ。
 で、楽しい。もちろん楽しいんだけど、それはある程度の妥協があっての楽しさなんだよなと改めて思う。俺にとって妥協の無い楽しさってのは「ジャズの中でジャズを完全に無視した即興を行う事」であって、それがある時期で実現出来ていたのは俺の異常性と周りの寛容だったのではないかなと思う。今はもう、あれですからね。空気読むからね。ジャズという枠の中で如何に楽しい、上がる音楽を作れるか、という事に終始している気がする。2拍3連のリズム、コード進行、という絶対的なルールに乗っとって、如何にバッキングという立場で面白いものを付け加えられるか。
 んで今日みたいなあやふやで小さな音しか出ないピアノで弾くと、どうしても細やかな機微を犠牲にしてフォルテッシモで弾くしか無くなる。すると、俺のボキャブラリーだとバップ中心となる。ドラムがバカでかい大ざっぱな音しか出さない場合は、更に選択肢は少なくなる。とは言え、ドラムが変に上手くてポリ全開でやると俺の脳では処理しきれなくて簡単なリズムに終始するかパニクって見失うかになるのでなかなか相性は難しい。相性の良い素敵なドラマーさんとやるとバッキングすればするほど快楽が脳から漏れ出るんだけどね。
 ただ、結局のところ、俺がジャズを何でやるのかって言うとジャズという「音楽」をやってるのではなくジャズという「遊び」をやっているのだよな。んで、俺にとって「遊び」ってのはパーソナルなもので、だからジャズだと一向に知り合いが増えないのだと思う。心を閉ざしてる。褒められると妙に気恥ずかしいのも、一人遊びを褒められるからなんだろうな。人に見せるものって言う意識が無いのかも知れない。
 こうやってピアノを弾く。ピアノを弾くって「軸」を持ってるってのは幸運な事だ。良くても悪くても、俺の中でずうっと進化するものがあるって事だから。