平等って何だと


 考えて、それは単に「持つもの」「持たざるもの」という話ではないと思った。何だろう。それは「敬意」では無いか。他人に対して自分の価値観を押しつけないようにすると、それは敬意が必要となるのでは無いかかと思った。では、その敬意は何から生まれるかというと、それは「理解」なのだと思う。では初めて会う人に対しては理解が無いから敬意は生まれないかというと、そんな事は無い。それは調子に乗らない心というか、「謙虚」さがあれば理解しようとする「努力」を生み出す事が出来る。
 この「謙虚」という心は、たぶん恐ろしいほど大切なものなのではないか。「自分は他人より偉いわけではない」と世界中の誰もが思っていれば、恐らく戦争など起こらないであろう。結果的に「持つもの」「持たざるもの」に分かれても、それが悲劇を呼ぶ事は無いであろう。しかし、世の中はそうは出来ていない。何故なら、謙虚という心は「ごく本能的な心の成長」に対して不自然な阻害要素なのではないか。だって、みんな飯を食う。生き物を殺して食らわなきゃ、そもそも生き残る事すら出来やしない。
 ならば、それは「程度」の問題だ。しかし程度の問題ほど難しいものは無い。程度が「どの程度なのか」を正確に知っている者はおらず、それを共有する事も不可能だからである。そんな訳で世の中は相も変わらず不平等であり、それは世界全体の話から身近な人間関係まで、全てに及んでいるのである。