俺の隣の違和感


 秋葉原という町にこの一ヶ月何度も通った。「オタク」という種がいつの間にか完全に市民権を得ている、もしくは市民権のある「土地」を得ているなというのを実感した。当たり前のように2ch語を話す連中というのが集団でいる土地。凄まじい。その内自分の思っている事がちゃんと「社会的」なのかどうかわからなくなってくるが、帰りの山手線に揺られながらその意識は少しずつ薄れていく。くたびれたサラリーマンに囲まれた俺はそこで少しだけ安心する。
 原宿という町にも何回か行った。そこでは「オシャレ」の群体がひしめき合っていた。オシャレを目指す女の子、オシャレ気取っている人、そしてオシャレに浸かっている人。俺は彼ら彼女らを見て秋葉原と何が違うんじゃろと思いながら眺めて、時々写真を撮る。秋葉原よりは見た目が華やかだから、少しだけ楽しい気持ちになる。
 同じ人が集まっている土地が何だか気持ち悪く感じる。
 何というか、土着の文化がある土地というのでは無く、土地に文化が集まってきて土着したという感じだ。オタクもオシャレも、生活から生まれたものでは無い。もっと違う、宙ぶらりんな場所から現実の「東京」に「土着」したものだ。そういう風に考えると秋葉原とか原宿とかは実は移民の町なのでは無いかと思った。チャイニーズタウンのような「オタクタウン」、「オシャレタウン」だ。観念の世界から集ってきた人たちには現実感がいつだって無い。俺だって相当に現実感の無い人間ではあるが、そんな「俺みたいな人間ばかり集まった町」というのは本当に不自然で、刺激的ではあるがグロテスクだ。
 まあ、原宿とか秋葉原とかそういう場所はあくまでも「祭りの会場」であって「生活の場」では無いのだからそれでも良いのかも知れない。でもそう考えても「祭りの会場」に毎日毎日足を運んで、友達も出来て、共通の言葉も出来て、そうやって「土着」していった人間はどんな風に変貌してしまうんだろうか?俺がもしそんな風になったらと考えると、結構素で怖い。職場が変わって秋葉原に行く事はもうほとんど無いだろうが、少し寂しく思いつつもだいぶ安堵している自分がいる。相模大野はだいぶつまらない町かも知れないけどね。でも、本当は「自分の土地じゃない」土地は全部が面白いはずなのだ。人工的な刺激に慣れ始めた自分が少し嫌になる。
 んでこんな感想抱いたりジャズの人間に嫌悪感を抱いたりする自分という人間は、ホントワガママなんだなと思ったりもした。