アドリブを人に見せる意味って何?


 という事を最近よく思う。そして何故か俺はその時にお笑いの世界を連想した。
 昔ダウンタウンのごっつええ感じという番組があって、その中で「ゴレンジャイ」というコントが大好きだった。ゴレンジャイは正義のヒーローが5人集まって悪の怪人を倒そうとするが、五人全員の格好がバラバラで、敵役の怪人に呆れられて逆に説教されてしまう、という筋。あれは実はほとんど全部がアドリブである。お互い、どんな格好をしているのかも知らない。そんな所から始まる。
 もし、あれが「アドリブで無かったら」、それは面白さの中核をなす緊張感を大いに欠く結果になっただろう。そして、そこまで面白いコントにならなかったと思う。あのコントは演者が「無理やり」言葉をひねり出してストーリーを作り出す様子が楽しいのであって、そこがあらかじめ決められてしまったら面白くも何とも無い。そして「ゴレンジャイはアドリブである」という認識があるのと無いのとでは感じる面白さに雲泥の差がある。あれが予め筋書きが決まってる、練習に練習を重ねたコントなんだ、と思ってみたら、恐らくグダグダに見える事だろう。
 そこにヒントがあるような気がする。
 音楽だろうがお笑いだろうが「人に見せて相手の心を動かす」という点においては同じである。俺は最近未完成な音楽(アドリブ)を人に見せる意味というのをずっと自問自答していたのだが、もしかしたらアドリブにだけ許された、特別なエンターティメント性というのはちゃんとあるのかも知れない。何がどう起こるかわからない。しかし、それでもちゃんとした「形」を模索して作る。もしくはその「模索」そのものをエンターティメントにする。それこそが「即興」の生きる道なのかも知れない。