さむい


 所謂フリースタイルラップという事が出来るようになった。と言っても普通のヒップホッパー(笑)みたいに文章を枠にはめて韻で締める、みたいな「キメ」的なものじゃなくて、トラックに合わせて間断無く喋り続けるという至極原始的な方法だ。しかしこれが日の目を見る事があるんだろうか、と思う。


 以前mixiで「ボイス日記」という企画をやった事がある。自分の喋りを録音して、それを日記形式にして出すというものだ。これがなかなか勇気がいった。何故なら「ひとりごと」という行為自体が「きもちわるい」行動だからだ。一人で文章を書くのも一人で言葉を口に出すのも本質的には同じだと思うのだが、如何せん「声に出す」という行動は必然的に「相手を必要とする(すべき)」行為と属されて、「相手が必要なはずの発生なのに相手がいない」独り言は社会的にも、感覚的にも「気持ち悪いもの」とされた。俺は昔から独り言が執拗に多いタイプだったが、時々からかわれてたような記憶がある。
 で、反面独り言というのは俺の中で「ごく自然な行為」であって、それを前々から何かしらの表現と結び付けられないだろうかと考えていた。ボイス日記というのもその実験の一つだ。その流れとして前からヒップホップのラップというのは興味があった。つーか、聞きまくっていた。しかし、聞けば聞くほど納得のいかないものを感じてもいた。
 基本的にヒップホップのラップは上にも書いたが「キメ」の文化だ。「俺は頂上 お前貧乏 それからお前の顔マジ疲労」みたいな、似たような音の文言を決められたタイミングでバシッバシッとキメる。(場合によっちゃポーズ付きで)即ち「枠に当てはまる」音楽であって、結果的に世のヒップホッパー(笑)が似たような格好になるのも当然の話なのだ。そして実はヒップホップは非常に内向きの、身内向きの音楽だ。ヤンキー文化と相性が良いのも当然かも知れない。
 俺はそのヒップホップを形作るほとんどのものが興味なかった。ヒップホップスタイルも韻もキメも興味が無かった。興味があったのは「バックリズムに合わせて言葉を喋る」というただ一点だ。そこらへんジャズに興味を持ったのと同じ形式だった。ジャズの場合「バックの音楽に合わせてピアノを弾く」ね。俺にとって枠は緩ければ緩いほどやりやすい。形式が決まれば決まるほどやりづらい。
 という事で一年くらいあれこれと考えて「自分なりの即興喋り」はどうやったら出来るか、というのを水面下で実験していたが、先日それがやっと形になった。かなり面白い。新しいおもちゃが出来上がったような気がした。


 しかし依然として「ひとりごと」は「さむい(気持ち悪い)」行為である。俺はたぶん周りから見たらほとんど異常者みたいな事をしていたりする。ピアノ弾きに輪をかけて画にならないし。上で「ヒップホッパー(笑)」と書いたけど、結局俺がやってんのも「表現(笑)」なんだろうなと思う。客観的に価値を持たすには、結局のところ説得力が持たなければ駄目なのだ。特に俺がやってんのは即興ピアノだろうが即興喋りだろうが「ジャンル」という後押しが無い。ジャンルの後押しってのは人に安心感を与えるものだ。見ている人に「脳に染み入らせるための前提」を最初から作ってあるのである。「声はさむい」「声はナルシスティック」この壁がどうにか壊せられなきゃ、この行為は結局日の目は見ることは無い。誰も居ないときのこっそり遊びに過ぎないものになるだろう。