自分のアドリブ観をつづった


 書きかけの日記の文章が丸ごと消えた。あきゃあ。悔しいので簡潔に主張を書き直すことにする。

 俺は「フレーズ」という言葉が嫌いだ。何故ならそのフレーズという言葉はメロディを無機的、機械的に捉えてる証左だからである。どこから仕入れたものであろうと、我々がアドリブという名において捻出している音の連なりは全て「メロディ」であるべきだ。メロディというのは有機的なものだ。音の前後に必ず関連性と意味を為す必要があって、そうする事で音は初めて「メロディ」という有機的なものとなる。
 そのメロディを生み出すには、とにかく曲に合わせてアドリブをしまくる事にあると思う。
 ところで俺は楽譜ガン見主義者だが、それは楽譜にはコード進行だけじゃなくて「テーマメロディ」も記されているからだ。その曲の中の2-5はただの2-5ではない。曲の中で「ここはこう弾くべきだ」と意味付けられている2-5である。その意味付けというのは、テーマメロディが教えてくれるものだ。だから、五線紙にコードだけ書かれて「はい曲」と渡されるのはかなり苦手で、同様に初見の曲を「簡単なコード進行だから大丈夫だろ」とやらされるのも苦手である。意味を理解するのはちょっとだけだが時間がかかる。少なくともテーマメロディで「休符がどこに使われてるか」というのは把握したいところだ。
 テーマにおいて休符はどのように使われているか、というのは非常に重要な事だと特記しておく。そして、こういうのを理解するのが曲の研究だと思うのだ。

 自分の文章にしては珍しく「べき」を頻発してるが、それだけ主張したいことなんだろうなあとボンヤリ思ったり。いや、和音の理論とリズムの理論は絶対必要ですよ。それは断言出来る。でも、それで終わっちゃ余りにも未成熟じゃないですか。俺らは瞬間瞬間で作曲をしているのと同様なのよ?