本当の本当は


 自分は凄い几帳面な完璧主義者なんだろうなあ、と思ったりする。
 さっきいつものように親父にバイオリンの伴奏をするように言われたんだけど、実はこれ、結構ストレスが溜まる。何故なら親父のやる事はいつもぶっつけ本番が多くて、それに対応すると個々の演奏が犠牲になりがちだからだ。今日はいつもやってる曲をテンポ30増しくらいで弾こうと言われた。とりあえずやって、いつものように弾けないと認識した途端に何でか知らんがやたらと怒りが込みあげてくる。「俺はゆっくりでいいから完璧に弾きたいんだよ」「全然一個一個の音に気配れねーじゃねーか」「わざと崩壊してやろうかな」と思った時点で「いかんいかん」と己を律する。しかし、そういう邪念を抱いた時点で高い集中力など望めるはずが無い。結局ひどい出来になってしまった。
 「ほうら見ろ」と心のどこかで思った。とんでもない逆ギレだ。そんな自分を思うと己の未熟さ(ピアノの腕もさる事ながら精神面で)に恥ずかしくてたまらなくなる。しかし、何故そのような事を「未熟にも」思ってしまうかというと、それはやはり自分が「弾くからにはベストを目指す」と思っているからだろう。ベストというのは、自分の悔いを無くしたくない、という意味だ。しかし、世の中はそんなものを余り求めていない。他者の要求を満たす方が、生きていくには圧倒的に大切だ。
 昨日夜にmixiでとある文章を久々に力をこめて書いた。
 今数えてみると1400文字あった。個人的にこういう文章はものすごーく褒めてもらいたい。が、コメントはつかない。当たり前だった。俺も見直してみたのだが、何というか他人の意見が入るような隙間が無い。城壁のような文章だと思った。mixiでコメントがつくのは、違うよね。もっと、他人にツッコミを入れやすい文章だ。感情的だったりマヌケだったり。ただ、わかってるけど真面目に書きたかった。久々だったし。