歌伴後の思考



 まあ何て言うか、俺にしてはよくやった、という代物だと思う。たぶん自分の実力からすると9割は発揮できているんじゃないだろうか。勿論、手放しに褒められた出来では無いんだけど。恐ろしく稚拙な場所と「いけた!」という場所のニ極端しかなかった。俺はいつもそうだ。ジャズ自体はもう数えて7年目にもなるはずなんだけど、イントロとエンディングに関しては正直ジャズ研の二年生程度の実力しかない。経験だと4〜5回?そんなもんか?そんな俺が本番だけプロ並の演奏が出来るはずが無い。
 んで、俺がこういう歌伴だとかバップだとか今まで取り残したところを埋め始めているのは、それが今「必要」なんだからじゃないかと思う。俺は自分の成長ラインに対してある仮説を常に持っていて、「必要なものは必要なときに自分で埋める」というのがそれに当たり、自己鍛錬に関してはかなり偶然と流れに頼っている節がある。だから出来る所は「どうだ!俺はここにいるぜ!」というくらい自信を持っているが、出来ないところはトコトンできないから言い訳か逃げに走りたくなる。今回は、たまたまそんな欠点の部分を「敢えてやってみよう」という期間だったというだけの話だ。去年の「ピアノを教える」という偶然から、俺は随分とジャズを「マトモに」演奏する力がついてきた。また、去年偶然「元カノに聞かせるために」即興を録音し始めて、それは暗点という形になった。偶然に頼ってるだけでも、案外転機というのは訪れるものだと思う。
 ところで、今日は自分の中では結構自信を持っている出来だったのだが、その反面失望されても文句は言えないだろうな、とも思っている。考えてみると、俺は大学時代から色々な方からチャンスを頂いて、それを悉く潰してきている。俺のピアノを聞いた人から「こいつは将来性があるな」「こいつに課題を与えて深みを見てみたい」と期待を抱かれ、試され、そして無残な結果に終わり期待が失望、そして憐憫の目に変わるのを随分と見てきた。「しょうがないよね」「今日は調子悪いの?」みたいな話は何度聞いただろう。チャンスの女神の前髪を掴む能力は、俺には無かった。その人に見せているのが常に俺のベストだと言うことを周りは気がついていない。「もっとあるはず」もっとなんて無い。それに対して昔はとてつもなく恥じて憤っていたのだが、最近は「こんなものかも」なんて思ったりする。俺の駄目な所は良い所と同じくらい極端で、しかもその駄目な所は結構そのものの根幹を担う部分だったりするのだが、そこは人には見えない。申し訳無い。その点暗点は全て自分で責任を背負っているのでとても気楽に自分のベストを出す事が出来る。暗点は「俺がベストを出す」為に環境作られている。そこには俺の欠点が必要不可欠な部分に相当することは無い。
 今日車で長い道のりをトロトロ走りながら、そんな事を考えた。誘ってくれた人の「まあ、こんなもんか」という顔が鮮明に思い浮かんだ。しかし、それに対しても「そんなもんか」という感想しか浮かばない。そんなもんだ。最近、欠点と向き合わなければいけない場面に相対する時、俺はその欠点のレベルこそが自分の現在のレベルなんだと考えるようにし始めている。今やってるバイトでもそうだし、今回の歌伴でもそうだ。どうしようも無い時は偶然に頼るよりも謙虚に出来る事だけをしよう、と考えると意外と大失敗をしない。長所でゴリ押し出来る部分と出来ない部分がある。今日は出来ない部分。だからそういう風に考えてそれなりの出来に満足している。


 ふと、自分は随分と柔軟な人間になったな、と思った。器用になった。こういう小器用さが世の中でどういう意味合いを持つのかはまだわからないが、それもまた星回りなんじゃないかななんて思ったりする。