環境問題について考えてみる



正確に言うと「環境問題について考えてみる」事を考えてみる。
環境問題は良い事って言うじゃないですか。逆に環境問題環境問題うるさく言う奴は「偽善だ!」と切り捨てられる事があるじゃないですか。しかし、本来環境問題って誰の為にやるの?という観点から考えてみる。他の生物や緑が無くなってしまう!可哀想!何とかしよう!て観点でやるならばそれは「他者に対する憐れみ」に当たるわけで、即ち環境問題を考える事は「善」に当たるわけだわな。(まあ、それが真に善なのか偽の善なのかは判断がつかんけど)けど、それがそうじゃなくて「このままじゃ俺ら住めなくなるぞ!何とかしないと!」て考えるとこれは全く違う事になるんだよね。それは自衛手段であり、功利的な行動という事になる。
今の環境問題について考える人って、この二つがごっちゃになってると思う。
まあ、今住んでる大地ってのは、俺らがいて、他の生物もいて、水も海もあって、という複合的なものである事は言うまでもない。環境が駄目になるって事は、究極的に言うとそれら全てが駄目になる事であって、そりゃ他者にも自分にも洒落にならん事である。だから、みんなで一致団結しよう。でも緑やら他の生物やらと意志を合わせる事は出来んから、とりあえずコミュニケーションが出来る人間だけで考えてみよう。ああ、ちなみに環境問題を「地球の為」と言うのは俺の中では正確ではない。だって別に地球は割れたりマグマが尽きたりするわけじゃないもの。表皮が駄目になってしまうだけだもの。人間が繁栄しようが環境を汚そうが、そして絶滅しようが、そんなものでどうにかなってしまうようなものではない。俺らの地面の下には、アホかと怒鳴ってしまうほどの奥の深い世界がある。
俺らは別に神じゃない。馬鹿でかい地球より偉い存在でなんて、あるはずが無い。
なので環境問題は俺にとってはやっぱり「善的行為」か「自衛行動」に思えるんだよなあ。「善的行動」だったら別に他者にゴリ押しする問題でもないのでやりたい奴がやっといたらええがな、て話になる。自衛行動だったら逆に多くの人が考えてくれないと意味が無い。まあ、どっちにしろ話があまりにも壮大なので、なかなか一般生活(と呼ばれてるもの)を送る我々には実感がわかない。川が汚くなったとか、魚が高くなったとか、そんな次元でしか考える事が出来ない。
何をすべきかってのはまだわかんないなあ。まあ、環境問題は多くの人間が共有すべき問題だとは思う。毎日何ヘクタールの森が消えるとかそういうデータじゃなく、実際に我々にどういう実害が被るかという観点での話は知っておいて損はないだろう。魚が食えなくなったとか水が飲めないとかはやっぱり困るからね。